太田道灌は武蔵に江戸城、河越城、岩槻城などを築城し名を残した。1546年、上杉朝定が河越夜戦で戦死し、扇谷上杉家は滅亡した。 左は道灌塚、右は道灌を守ろうとした家来の塚。
また、太田道潅が後花園天皇に答えた歌に「我庵は松原つづき海近く 富士の高嶺を軒端にぞ見る」この歌からわかるように江戸城のすぐ前は、海だったことがわかります。 天正18年(1590年)徳川家康は豊臣秀吉より関東に封ぜられ、江戸城に入った折り、現在の錦町一丁目にこの社を移しました。 天下平定を成した家康は、慶長11年(1606年)江戸城増築に伴い、この「一口稲荷」を現在の駿河台の一角、聖橋の袂に遷座しました。写真参照。 そして代々の将軍がこれを崇拝し、その修理造営は徳川家が行ない、僧職が別当(長官)となって、この神社に奉仕致しました。(その頃まだ、聖橋はなく下流の昌平橋は「一口橋」と呼んでおりまして、又この坂はこの神社の表参道でありました。) ※写真は明治17年頃の太田姫稲荷神社の写真だそうです。 明治5年(1872年)東京府より村社に定められ、その名も太田姫稲荷神社と称し錦町一丁目、小川町二丁目の一部、駿河台全域の氏神としました。 また例祭日を4月18日としましたが、後に5月15日に改めました。大正12年の大震災で類焼しましたが、昭和3年には本社殿が南向き(それまでは東北東)にして新築されました。 昭和6年(1931年)総武線開通工事の為に、現在の駿河台一丁目二番地にそのままの形で移されました。